ノーベル賞を取った東大卒業者
東大を目指している受験生のなかには、真剣に「ノーベル賞をとりたい」と考えている人がいるのではないでしょうか。そのような人は、すでに模試で東大にA判定またはB判定が出ていて、東大に入ってからのことや、東大を卒業してからのことを考えているのではないでしょうか。
実際に東大を出てノーベル賞をとった人を、3人紹介します。彼らは「普通の人」と「普通でない人」の両面を持つ、ユニークな人たちです。東大受験生は近い将来、この人たちの後輩になるかもしれないので、人物像を把握しておいてください。
生理学・医学賞の大隅良典さんはこんな人
大隅良典さんは2016年にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。大隈さんは1963年に東大理科二類に入学し、1965年に教養学部基礎科学科に進学しました。「科学の基礎」という言葉には、浅く広くというイメージがあります。一方、ノーベル生理学・医学賞は、ひとつのことを貫いた人がとるイメージがあります。その点について大隈さんは次のように述べています。
当初は化学を専攻するつもりで東京大学理科二類に入学したが(中略)大学1、2年の化学は、ワクワクするような面白さがなかったんです。基礎科学科というのは、専攻に縛られず、科学全般を学ぶことが目的で、迷わず選びました。
引用:http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/about/history/honor/award_b/nobel/2017/ohsumi/ohsumi.html |
東大受験生にとって、この見解はとても参考になるはずです。東大レベルの学問であっても、「面白くない」と感じてしまう可能性があるのです。インターネットが普及して情報が溢れる社会になっても、想像していた学問と実際に取り組む学問には、ギャップが生まれます。
しかし、事前に大隈さんの「この感覚」を知っておけば、東大に入って本格的な研究に着手して違和感を持ったとき、慌てずに済みます。大隈さんはその次に、どのような行動をとったのでしょうか。
受賞理由は細胞の研究
大隈さんのノーベル生理学・医学賞の受賞理由は、オートファジーの仕組みの解明です。高校の教科でいえば生物になります。
細胞は生きるために養分を保全しようとします。その保全の仕方は、資源ごみのリサイクルと似ています。例えば、自動車の解体場で使えそうな部品を集めて1台の自動車をつくるようなものです。
細胞は自分が使わなくなったプロテインや細胞小器官をリサイクルしているのです。このリサイクルの過程を、オートファジーといいます。オートファジーのメカニズムは1960年代から知られていましたが、それがどのように働いているかは、大隈さんの論文が発表されるまで謎でした。
専門を決めてからの転機
話しを大隈さんの学生時代に戻します。科学の基礎を学んでいた大隈さんは、タンパク質の生合成に興味を持ちます。それで分子生物学を自分の専門分野に定め、東大の大学院に進学しました。
大隈さんはそのまま東大の博士課程に進学し、遺伝とアミノ酸の研究をしました。ここまでは東大で学んでいたのですが、博士課程の途中で、京大に国内留学をします。今風にいえば「電撃移籍」です。
京大が理学部に生物物理学科をつくり、そこに大隈さんの指導教官が移ったので、弟子の大隈さんも移籍したわけです。また、当時東大は学生紛争が激しく、落ち着いて研究できないという事情もありました。
ただ、大隈さんは、ノーベル賞受賞発表後の2016年の日本経済新聞のインタビューで、気になることを言っています。
東京大学に残っていたら、ここまで研究は広がらなかった。東大が悪かったわけではないが、本当にすべてのことをひとりでやらないといけなかった。
引用:https://style.nikkei.com/article/DGXMZO08031200V01C16A0000000/ |
これはノーベル賞受賞がわかったあとのインタビューなので、「東大に残っていたらノーベル賞はとれなかった」と言っているようにも聞こえます。実は大隈さんは、もう一度東大を「逃げます」。大隈さんは東大助教授(現、准教授)に就任しますが、1996年にその職を辞して、愛知県岡崎市の岡崎国立共同研究機構基礎生物学研究所(当時)に転職しています。
東大助教授の職を投げ捨てることは、研究の世界では無謀な行為といえるでしょう。
インタビューをした日本経済新聞の記者は、大隈さんを含む東大卒者のノーベル受賞者を調べて、東大時代の研究の成果によりノーベル賞を受賞した人は意外に少ない、と指摘しています。
これは、「ノーベル賞をとるには東大入試に合格するだけの「地頭」は必要だが、研究室としての東大はベストな環境とは言い難い」とも聞こえます。こうした「生々しい」情報も、東大受験生は覚えておいたほうがいいかもしれません。
物理学賞の江崎玲於奈さんはこんな人
1947年に東大理学部物理学科を卒業した江崎玲於奈さんは、1973年にノーベル物理学賞を受賞します。江崎さんの下の名前は「れおな」と読みます。レオはラテン語で獅子という意味です。江崎さんはかなり勇ましい名前を与えられました。
江崎さんは、この名前によって「自分はみんなとは違う」という意識を持つようになった、と振り返っています。ノーベル賞は、世界中の天才や秀才が競争して、超天才または超秀才だけが獲得できる栄誉です。その厳しい闘いを勝ち抜くには、「自分は違う、だからまだまだやれる」という意識が必要になるのかもしれません。
受賞理由のトンネル効果とは
江崎さんのノーベル物理学賞の受賞理由は、電気回路のトンネル効果です。電気回路に電圧をかけると、電気が流れます。これを電流といいます。そして、電圧を上げると、電流も増えます。ところが、ある条件下では、電圧を上げると電流が減少する現象が現れたのです。
これはつじつまが合わない現象です。
例えば、テニスボールを10個、壁に向かって投げつけると、10個とも跳ね返ってきます。テニスボールを100個に増やすと、跳ね返ってくるテニスボールも100個に増えます。ここまでは、電圧を上げると電流が増える現象を説明しています。
しかし、電圧を上げると電流が減少する現象は、テニスボールを1,000個、壁に投げつけて、900個しか跳ね返ってこないようなものです。物理に詳しくない人でもこれが「おかしい」ことはわかります。
そして、それは「起きてはならない」現象でもあります。なぜなら壁に1,000個投げたテニスボールが900個に減るとしたら、それは100個のテニスボールが壁をすり抜けてしまったことになるからです。
この「すり抜け」現象を、江崎さんが発見したのです。
テニスボールやビー玉といった大きな物体の世界では、絶対に物体は壁をすり抜けないのですが、電子や素粒子といった極微小の世界では、すり抜けが発生するのです。江崎さんはこの現象をPN接合型ダイオードという半導体結晶で証明して、ノーベル賞を受賞しました。
まるで電子が通るトンネルが存在するようにすり抜けるのでトンネル効果というわけです。
トンネル効果はコンピュータの処理スピードを高める技術に応用されました。
挫折
江崎さんの若いころの様子をみてみましょう。東大に入る人が全員天才なわけではありません。ノーベル賞受賞者も天才ばかりではありません。江崎さんの経歴を調べると、恐らく天才肌ではないことがわかります。
江崎さんは中学受験で第1志望校に不合格になり、第2志望の同志社中学に入学しました。
獅子は挫折を味わうわけですが、ここからが普通の人とは違います。江崎さんはこの挫折のなかから、大きなものを得ます。
同志社中学はキリスト教の学校なので、西洋の合理的な考え方を学ぶことができました。アメリカ人教師からは、アメリカ特有の自由さを体感しました。江崎さんは将来、日本の研究環境に嫌気が指してアメリカに渡るのですが、同志社中学時代の西洋体験があったので、すんなり渡航できたのかもしれません。
東大ならではの出会い「もう1人のレオ」
東大理学部物理学科に進学した江崎さんは、東大で「もう1人のレオ」と出会います。その人は森礼於さん、小説家、森鴎外の息子です。森鴎外は現、東大医学部の第一大学区医学校を卒業しています。鴎外と礼於さんは親子2代にわたって東大に入ったわけです。
将来のノーベル賞受賞者が、日本のレジェンド小説家の息子と出会うのは、一見すると偶然のように思えますが、会った場所が東大であることを考えると、必然であるといえるでしょう。東大は、「こういう人たち」が集まる場所だからです。
単なるサラリーマンだった
江崎さんは戦争の混乱もあって、東大を卒業したあとは研究者の道ではなく、技術者の道を歩みます。ラジオやテレビに使われるトランジスタという部品に興味を持ち、東京通信工業に入社します。サラリーマンになりました。
ただし、普通のサラリーマンにはなりません。東京通信工業は、のちのソニーです。世界的な人物になる江崎さんは、世界的な企業になる会社を選んでいたのです。
ノーベル賞を目指す東大受験生は、江崎さんの人生と大隈さんの人生を比較してみてください。江崎さんはサラリーマンになりました。大隈さんは研究者の道を歩みました。普通のサラリーマンと普通の研究者は、普通は同じゴールにたどり着きません。
しかし、東大を卒業してノーベル賞をとるような「地頭」を持っている人たちは、サラリーマンになろうが研究者になろうが関係ないわけです。「こういう人たち」は、どこにいてもノーベル賞に値する研究をします。
日本に嫌気がさしてアメリカに渡った
江崎さんのトンネル効果の論文は、日本の学会ではほとんど無視されてしまいました。しかし、アメリカの物理専門誌がその論文を採用し、さらにトランジスタの生みの親であるショックリー博士という人が、国際会議で江崎さんの研究を称賛しました。
すると日本でも、江崎さんに注目するようになりました。江崎さんはその雰囲気に疲れるようになり、アメリカに渡ってIBMのワトソン研究所に転職してしまいました。
帰国して筑波大の学長に
江崎さんが日本に嫌気がさしたのは、当然でしょう。江崎さんがノーベル賞を受賞すると、日本国内では「日本の貴重な頭脳がアメリカに流出した」という見方がされるようになりました。
研究の価値は見抜けなかったのに、ノーベル賞という「ブランド」には簡単に動揺するのが日本人です。江崎さんがノーベル賞を受賞したのは1973年で、江崎さんが帰国したのは約20年後の1992年です。江崎さんは筑波大学の学長になりました。日本側はようやく江崎さんにふさわしいポストを用意できたわけです。
やはり東大での研究の成果ではない
江崎さんの場合も、大隈さんと同じように、東大を出てはいますが、東大でノーベル賞の受賞理由になる研究をしたわけではありません。東大は「日本一の大学」といわれていて、日本一多くの税金が投じられている大学だけに、少し寂しい印象があります。
文学書の大江健三郎さんはこんな人
理系の東大卒ノーベル賞受賞者を2人紹介したので、文系も紹介します。
東大文学部仏文科を卒業した、小説家、大江健三郎さんは1994年にノーベル文学賞を受賞しました。
1968年にやはりノーベル文学賞を受賞した川端康成も東京帝国大学国文学科(現、東大文学部)を卒業していますが、ここでは大江さんに注目してみます。
学生で芥川賞受賞
大江さんは天才肌です。というより、当時は超がつく小説の天才でした。東大在学中の1958年に、大江さんは23歳で芥川賞を受賞します。
当時の芥川賞選考委員の一人は、川端でした。川端は大江さんに芥川賞を授け、ノーベル賞の取り方まで示した――と考えるのは穿(うが)ちすぎでしょうか。いずれにしても、川端と大江さんの出会いも東大を介しているので、偶然ではなく当然といえるでしょう。
魂のことを書いている
大江さんは魂のことを書いている、と言われています。大江さんはある小説で「救い主」と呼ばれる主人公が教会を設立して宗教をつくり、組織化していく様子を描きました。その後、オウム真理教の地下鉄サリン事件が起きたとき、大江さんの小説が「予言した」と話題になりました。
「文学エリートは東大卒」が当たり前だった時代
大江さんは東大では、仏文科を専攻していました。つまりフランス文学を研究していたのです。文学を研究していた人が、人を感動させる小説を書くのは、至極当然のような気もします。
先ほど紹介したとおり、川端康成も森鴎外も東大卒です。鴎外と並んで日本のレジェンド小説家である夏目漱石も東大卒です。漱石の弟子で、学校の教科書でおなじみの芥川龍之介も東大卒です。太宰治も三島由紀夫も東大卒です。
昔は、文学エリートが東大卒であることが当たり前でした。しかし、現代は当たり前でなくなっています。村上春樹さんは早稲田大、村上龍さんは武蔵野美術大をそれぞれ卒業しています。
まとめ
東大卒のノーベル賞受賞者たちは、東大のことをどのように思っているのでしょうか。大隈さんは「東京大学に残っていたら、ここまで研究は広がらなかった」と述べているので、少なくとも「東大を出たおかげでノーベル賞をとることができた」とは思っていないようです。しかし、一般の人からすると「東大に入ることができる頭」と「ノーベル賞をとることができる頭」は同じような気がします。どちらも天下一品の頭脳です。
ノーベル賞をとりたいと思っている受験生が東大を狙うのは、間違っていないでしょう。もし東大の研究環境が合わないと感じたら、いくらでも外に出ればいいのです。大隈さんや江崎さんや大江さんのように。